2013年3月11日

分岐点


僕は最初、黙っている。
ぬるく濁った水の中に浮かんで、じっとしている。
それから窓が開き、外の世界に出て目を細める。
最初に何かを言おうとしたけれど、口の中からはおぎゃあと言う音しか出てこない。

白衣を着た女の人が僕の体の一部を切り取り、
タオルでくるくると拭きまわし、
ベッドに寝ている母にその姿を見せる。

彼女は少し涙を浮かべて微笑み、
遅れて入って来た父は物珍しそうに僕を見て、
中から漏れてくる感情を飲みこみ、
わずかに笑顔のようなものを見せる。

小さな僕はベッドに寝かされながらも、周りの出来事を観察している。
人は大人になると指が六本になるのだと、なぜかそう考えている。
歯が生えるときにわずかな痛みが走る。
初めて痛みというものの存在を知り、大きな泣き声を上げる。



四歳の誕生日。
僕はもう何でもできるとのだと思いこんでいる。
しかし大きな脚のハサミに挟まれて、手加減した大人にすら勝てないことを知る。

その夜、僕は夢を見る。
社宅のまえの草むらに、白と黒の縞模様の芋虫が這っている。
僕は倉庫に上り、琵琶の実をもいで食べる。
種を投げつけると、芋虫は寂しそうに去ってゆく。
皮はその辺に捨て、口の中に渋いものが残る。
次の日、社宅の壁を二匹の蛇が這っているのを見る。
消防署の人がかけつけ、ゴルフクラブで蛇の二つの頭を割る。
赤黒い血を流し、洗濯物のようにクラブにぶら下がる蛇を、
僕は少し離れたところから見ている。

部屋の中で、僕は一人絵を描いている。
夜の空に浮かぶ月。
それを見た母親は、輪郭を描かないと絵にならないよ、と僕に言う。
どんなに目を凝らしても、夜空に輪郭なんてないのにと思いながら、
僕は黒いクレヨンを手に取り、
月の周りを縁取る。

小さな僕は目をつむっている。
友だちにくるくるとまわされながら拳をふるう。
僕の手の感触は定かではなかったが、友だちは右目を抑えている。
悲しみをたたえた目でこちらを見ている。
しかし周りの空気は何ごともなかったように前進し、僕に考える間を与えない。



初めて入る教室の中で、
うしろの席の少年が険しい表情をしながら僕の手の甲をつねる。
僕の手の感触は麻痺し、何も感じない。
僕が少年の手の甲をつねると、彼は手を引いて怯えた目で僕を見る。
にらんでくれた方がましだ、と僕は思う。

夜が静かになり、外に雪の積もったことを知る。
朝、窓から見える景色は真っ白で
何者にもそれを汚されたくないと僕は思う。
しかし家を出ると、道に誰かの足跡が一本続いているのに気づく。
これ以上汚されないように、この足跡のみを辿って学校へ行こう、
と友だちに提案するも、彼はすぐに飽きてその辺をかけまわり出す。
僕は足跡をたどりながら、はしゃいでかけまわる友だちを眺めている。

春の日の体育館、威風堂々のメロディが流れている。
それは僕の耳から入りこみ、脳の中まで巡り、それから孤独感が押し寄せてくる。
周りの人とつながっていた糸が、ぷつぷつと切れていくのを感じる。
何もまとってなく、とても寒々しい。



轟音を放ちながら、米軍の飛行機が校舎のすぐ上を通りすぎる。
二重の窓ガラスが揺れ、がたがたと音を立てる。
僕が誕生日だと訊くと、その人は僕の手にじゃらりと小銭を落とし、
おめでとうと言う。
僕はありがとうと言い、顔を上げることができないでいる。

その頃から、僕は夜が来るのを恐れるようになる。
夜になると、そいつの去るのをじっと待ち、
夜が明けると、再びそいつの現れるのを恐れながらすごす。
眠れないのが怖いのではなく、闇の中に何かの形を見るのを恐いと思う。



僕は港の立入禁止の場所で寝ている。
起き上がって辺りを見まわすと、周りには友だちも一緒に眠っていることに気づく。
まえの夜、線路の下側から電車を見たことを思い出し、身震いをする。
友だちは次々と起き出し、魚を海に戻して去ってゆく。
電線に釣り糸がかかっているけれど、誰も気にする者はいない。

港の近くの通りを、僕は一人で歩いている。
まえを歩いているカップルが立ち止まり、キスをする。
強烈な光を受けた真っ白な建物の陰に、彼らは消えて見えなくなる。
僕の周りに誰もいなくなり、地球上にたった一人取り残されたような気持ちになる。



それから一年間、僕は黙っている。
次第に、僕の中に吐き出すべきものが溜まってくるのを感じる。
三年も経つと、それは内に収まりきらぬものと知り、
僕はそいつらを外へ吐き出しはじめる。

人は対比の生物であることを知る。
価値は人が創ることを知る。
世界は圴一へと向かっていることを知る。
夜桜以上に美しいものが、この世に存在し得るのだろうかと考える。
ビールの缶を天井まで積み上げて、という表現に惹かれる。
僕の中に様々な人格が現れ、心の内部を荒らしはじめる。
そいつらは次々と現れ、また次々と去ってゆく。

電車の中で、隣に座っている女の人が本を読んで涙を流す。
地下鉄の駅で、ホームに立ち尽くし涙を流している男の人を見る。
僕は、人の人生の、大きく変わろうとしているのを目撃する。

オレンジ色の街灯に照らされた十字路に、とても強いインスピレーションを受ける。
僕の頭からそれが離れなくなり、ほとんど取りつかれたようになる。
しかしどう表現すれば良いのか分からず、途方に暮れてしまう。
それはまるで、自我に目覚めた少年が、
いざ何かをしようとして何もできないでいるのと同じように。
僕の出力は、頭の中のそれと比べてあまりにも小さい。



僕は、四歳の頃に住んでいた社宅を訪れる。
入り口は鉄線で塞がれ、板が打ちつけてある。
窓ガラスの割れた部屋もあり、もう誰も住んでいない。
僕の記憶の中にある公園は、どこにあったか思い出すことができない。
その公園は、記憶毎にその形状を変える。
その公園は、僕が再会を果たした場所。
その公園は、当時の僕にも小さく感じられた場所。

足下に、生き生きとした草の生えていることに気づく。
草を見て、その鮮やかさを一体誰が描けるというのだ、と思う。
草を見て、その躍動を一体誰が描写できるというのだ、と思う。
草を見て、その鼓動を一体誰が奏でられるというのだ、と思う。
その一切ができぬというのなら、表現することに、一体何の意味が在るのだと考える。



喫茶店の隅にあるピアノから、何か懐かしい曲が流れてくる。
これは僕にとって、人生においての贈りもののように感じられ、
ピアノを弾いている女性に
「ありがとうございます。僕はこの曲がとても好きなのです」
と声をかける。
僕はその女性の生い立ちと、喫茶店でピアノを弾くようになった経緯とを知る。

帰りの電車の中で、僕の隣には幼き日の僕と祖父の姿があった。
僕は祖父の膝の上でぐったりと眠っており、
祖父はうとうとしながらも両腕でしっかりと僕の体を支えている。
成長した僕を見て、おじいちゃんはどう思っていたのだろうか、と思う。
僕の靴が脱げて床に落ち、それを見つめる祖父の目はとても誠実だった。

雲一つない春の日で、夢の中のように静かだ。
同じ車が二度、デジャビュのように通りすぎる。
今日というこの日は紛れもなく素晴らしい日であると感じるも、
僕の内部は悲しみで満ちている。
涙がこぼれ、アスファルトに落ちる音さえ聞こえる。

小さな公園で、父と子がキャッチボールをしている。
父親はボールを取り損ね、それを追ってかける。
ベンチに腰をおろし、ギターの練習をしている少年。
そのしらべは、街路樹の隙間をぬって大空に放たれる。
濃い青に、少し白と黄を混ぜた色の空に、吸いこまれてゆく。

道の真ん中に、一羽の真っ白な鳥が居座っている。
そいつは僕が近寄っても逃げようとはせず、僕の内面をじっと見ている。
仲間に促されてようやく飛び立ったその鳥は、
少年の放ったしらべと混ざり合い、気持ち良さそうに流されてゆく。

アパートの階段に、真黒で柔らかそうな蛾がいるのに気づく。
でも別に気にすることなく、僕はそれを正面から見据え、部屋の中へと入る。



コップの中の水が波紋を作る。
机が揺れる。
本の山が崩れる。
ものすごい力で、ドアを叩く音がする。
何者かが、家の中に入ろうとしている。
僕にはそいつを阻止する力はない。
ふすまの陰で震えている。

僕は、喫茶店で流れた曲を思い出す。
それは贈りものではなく、分岐点であったことを知る。
また同時に、その扉はいずれ僕の開けなくてはならないものだということも知る。
幼き僕を知り、僕がここに至った経緯を知るために。

僕は腰を上げ、机に向かって本を読む。
また文章を書く。
絵を描き、様々なことを想像する。
そうして、まえの世の記憶が戻ってくるのを感じる。
僕は衝撃を受け、ノートにそれを書きつけてゆく。
それは自由な意志を持つように、次々と涌いて出てくる。
しかしどんなに書き出したところで、僕は未だに扉を開けることのできないでいる。





水色のビートル/エピローグより
by SULEBOX

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